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アニメや映画などを観て感じたこと、想ったこと。ネタバレする場合有。

2005.04.15~2021.05.09


※気付いたら8000字を超えていました。ほとんど思いつくままに書き、セルフ校正もしていないので読みやすさは全く考えてません。

 

去る2021年5月9日午前1時45分。私の親友が旅立ちました。

親友の名は「ライち」。

彼は人間の私とは違う、猫という生物に生まれました。

種族は違っても、私の友人は私たちを「親友」と表現してくれました。それはライちが旅立つ数時間前の事で、借り物を返すついでに少しだけした会話の中での言葉でした。

私は他人からそう表現して貰ったことがものすごく嬉しかった。

 

ライちが旅立って数日。

Kobeの時はただただ訳が分からず、途方も無い無力感や悲しみばかりだった。

ライちの時は心に穴というよりは、自分の愛や時間をかけていた相手が急にいなくなった感じ。

まだまだ貴方の為の愛も時間も用意するし、したいのに、受け止めてくれる相手がいなくなってしまった。振り上げた拳をどうしていいか分からないみたいな。

全身全霊を賭した使命を取り上げられてしまった様な。

難しいのは、ライちの世話などが仕事とかではなく、好意故にやっていたということ。面倒な仕事とかの様にする必要が無くなったからと言って「終わったー」とはならない。

一応、ある程度の覚悟はしていた所為かKobeの時の様な絶望感や脱力感や虚無感に襲われてはいない。今のところは。

 私にとって、Kobeが最高のヒーローだとしたら、ライちは最愛の親友でした。

 

 さて。昔話から話していきます。

出会いは私が高校生の時。正確な日付は覚えていませんが、6月の初め頃だったと思います。

体育祭に向けて放課後に集まり、応援やダンスの練習をするー通称:闇練ーの帰りでした。

その日は俄か雨が何度か降っていて、地面は濡れていました。

場所は近所の小学校に沿った遊歩道。

高校生は10時までなら補導されないので、そのギリギリを狙って解散していたことにより暗闇を照らすのは人工の街灯くらい。その数十メートルという間隔で設置されている街灯の明かりの中で、いかにも猫という感じの高目の声で彼は鳴いていました。周囲には私と彼以外の生物の気配は無し。

私が自転車を止めても助けを求めるかの様に鳴き続けていました。

私は自分ひとりではどうしていいか分からなかった為、親に判断を仰ごうと家に向かって自転車を再び漕ぎ出しました。私がそうして去ろうとした時に、彼は少しついて来た事をよく覚えています。「ごめんね」と言いながらスピードを上げたと思います。

そして家に帰って「子猫が鳴いてたんだけど…。」といい、その場所まで案内しました。

母と妹が来ましたが、彼が余りに小さく本当に手乗りサイズだった為、1メートル程にまで接近しないと2人は認識してくれませんでした。

そうして、抱いた母親の腕を噛みながらも彼はその後約16年間過ごす家に連れて来られました。

最初は他に飼ってくれる家がいないかと私も同級生に尋ねてみたりもしましたが、新たな引き取り手は見つかりませんでした。

拾って来た時の彼の様子は、ずっと鳴いていて、雨に濡れており、髭の根本に独特の模様がありました。

最初は警戒していたのか、分からなかったのか、飲み食いしませんでしたが、お皿を用意してあげたり、医者で診てもらったりしたらドンドン食べるようになりました。

髭の根本にある独特の模様は実は鼻水が固まったもので、ウィルス性の風邪を引いており、そのまま放っといたら死んでいたと医者から言われました。

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拾われてきたばかりの頃のライち

冒頭の名前、よく間違われるんですがあれは書き間違いとかではなく「ライち」で合っています。

命の大切さを表現したくて英語の「LIFE(ライフ)」と日本語の「命(いのち)」を繋げて、私が「ライち」と命名しました。

 

家に慣れてからは色々とやることが増えていって。

ご飯の場所、お水の場所、トイレの場所は覚えてもらえました。

あとはまあとにかく元気が良くて。毎日数回はハイテンションに走り回る時間があり、

お留守番を任せて帰ってくると障子やティッシュが大惨事だったり、

よくじゃれついて色んな人の足や手に傷を作ってました。

全く知らない人、郵便配達や清掃業者の人には人見知りしますが、懐くに至るまでにある壁は割と低く、知ってる人が親しげにしてれば大抵はすぐに懐いてくれてました。

ライちが自分の役割というか、習慣化していたことが幾つかありました。

母親の洗濯について行って空になった洗濯カゴに入って戻ってくる、

誰かが帰って来ると玄関まで迎えに行く、

夜は母親と一緒に寝る、

朝私が起きてくると挨拶をしてくれる、あたりだろうか。

そういえば大学の長期休暇で久しぶりに帰省した時、玄関で私の顔を見た瞬間に目を見開いたことがあったなあ。当時は「誰ぇ!?」ってことかと思ったけど、どうなんだろ。あの表情は笑えた。

私はあまり体験しなかったけど、どうやら若い頃はちょいちょい脱走していたらしい。基本、室内飼いなのであまり外には出さなくて、偶にベランダやリード付けての散歩や抱っこで外に出ると喜んでた。

家の誰か(大抵は母親)が庭いじりとかで家の周りにいると「ぼくも連れてって」って感じでずっと鳴いてたな。

あと、抱っこは基本的に好きじゃなかった。抱えあげても10秒と保たずに嫌がりだすし、顔同士を近づけると「ヤメレ」って感じで腕で突っ張る。でもそうすると肉球が顔に当たるので満更でもなかったり。

ライちは手を顔に当てたり、腕や足に飛びかかって傷を作ったりはしていたけど、アニメなどで描かれる顔に爪を立てるような事だけは絶対にしなかった。これは後で知ったことなんだけど、母親の知り合いが赤ちゃんを連れてきた事があって、その子に耳をイジられたんだけど、私とかが相手のライちなら必ず噛んだり爪でじゃれてくるのに、その時は何も手を出さなかった。手を出していい相手、駄目な相手をしっかり理解していたんだろう。

追いかけっこをしていたり、イタズラをして怒られると悟った時に逃げるのを諦めると、降参のポーズとしてその場で倒れておなかを見せていた。

「駄目」「ちょっと待って」「寝るよ」は度々理解していると思える言動を見せていた。2階で寝ている時とかに1階から呼ぶと駆けつけたりもした。

ライちの目線で両掌を見せて「おいで」と言うとほぼ必ず手を目指して近寄ってきたので、これは確実に理解していたと言えるだろう。

新鮮な水が好きで、目の前で新しく汲み直した水でないとあまり飲もうとしなかった。

基本的に寝る場所は母親の寝室となっていたが、私が深夜に帰宅したり風呂に入っていると起きてきたりもしたし。私の部屋や妹の部屋でお気に入りの場所を見つけてはそこでもよく寝ていた。大抵は座布団、畳んである掛け布団、ブランケットの上だった。私は普段あまりいっしょに寝てこなかったので晩年は寝室以外でライちが寝ている時にそっと横におじゃましたりしていた。

あと、深夜に寝室に行く際にライちは私に付き添いを頼んだ。リビングから母親が寝ている寝室まで同行しろとなって、よくついて行ったものだった。 

挨拶代わりにしょっちゅう鼻同士を近づけていたりもした。

 

こうやって思い出そうとするとライちとの思い出はやはりキリが無い。

暑いのが苦手で、それでいて冷房が嫌いなもんだから、夏は室内の戸を開けて全館冷房で熱中症対策。

寒いのも嫌いだったけど、冬はストーブと炬燵が大好きでよく寝ていた。ストーブは吹出口からほぼゼロ距離で暖を取っていることがあり「焼き猫になるよ」と移動させたりもした。涼しい季節になってくるとよく他人の胡座の中に入ってきて落ち着きだしていた。殆どの場合、数時間胡座をかいたままになるので入られた人間は足の凝り固まりとの戦いだった。夕飯時には私などの食卓椅子に座っていて、降ろされたり、私は他の椅子に座ったりして対応していた。

偶に炬燵や布団から頭だけ出して寝ている事があって、どこかで「自分は人間だ」とも思っていたような印象もある。

顎を撫でられるのが好きで、撫でてやるとどんどん顔が上を向いていった。でも身体とか尻尾はやはりあまり良い気はしないみたいで、ちょっと触るとすぐに自分で舐めて洗っていた。首と手の間が特に毛並みが良く、ツヤツヤふさふさでそこもよく撫でていた。勿論、頭頂から背中にかけてのラインも好きだった。

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 小さい頃から腎臓の数値はよく無かった。猫としては珍しいことではないようだが。

念の為にずっと病院で購入した腎臓ケア用のご飯を食べていた。2021年の初頭に殆ど何も食べなくなった日があって、その時にCiaoちゅ~るやシーバなど市販のご飯を出したら、それはそれで喜んで食べていた。体調は悪くなっていった2021年の春頃からは、ご飯やお水の器を持ってあげて食べやすい位置に差し出す事で栄養補給をしていた。食欲自体はあった。まあ、認知症も少しあったようなので食べたことを忘れていた可能性も無くはないけど。

 

猫の寿命は15歳前後と聞いていた。なので2020年に15歳を迎える前辺りから私はいつか来るであろうその日の事を偶に考えては辛くなっていた。

目に見えて衰えが見え始めたのも2020年の春から夏あたりだっただろうか。足腰からだった。以前からおもちゃで遊ぶ時にジャンプをしなくなってはいたが、階段をスムーズに登れなくなった。調子の良い日は軽快に出来ていたが、一歩一歩ゆっくり登る事が多くなっていった。その次は水飲み場にしていたシンクに上がらなくなり、次は寝床にしていたチェストに上がらなくなり、最終的には階段の上り下りが出来なくなった。上りは兎も角、本人的には自力で階段を降りたい気持ちはあるみたいだったが、ほぼほぼ途中で転がり落ちるので注意が必要だった。

また、2020年は「どれだけ寝るの?」って位寝ていたのが、腎臓の数値が悪化していくにつれて起きてる時間が増えていった。具合が悪い時程ライちは起きているみたいだった。2021年の3月からは投薬だけでなく、病院通いの輸液も始まった。腎臓の不調と足腰の衰えが重なり、したくてもトイレで用を足せなくなった為、おむつを履かせる様になった。幸いにも、おむつは特に嫌がることなく履いてくれていた。

輸液は自宅でも出来るとのことだったが、ライちが家で大人しくしてるとは思えなかったので病院通いを当初は続けていた。しかし、やはりライちのストレスを考えて4月の下旬からは自宅での輸液にシフトした。しかしライちは予想に反して、自宅での輸液中だけは大人しくあり続けた。私はまだまだライちの利口さを測りかねていた。しかしそれでも違和感があるのか、ライちは鳴きながらの徘徊を止めずに、声も低くハスキーになっていった。

元気がなくて尻尾が下がっていても、横っ腹をポンポンと優しく叩くと嬉しかったのか、尻尾が立ったりしていた。

 

世間が緊急事態宣言下のGWで騒がれている中でそれは突然のことだった。いや、思い返すと、左側のご飯ばかり食べていたり、小さな予兆はあったが。5月4日の夜、いつも通り母親に抱かれて床についたライちだったが、興奮が収まらなかった為に、医者から処方されていた鎮静剤を飲ませて就寝した。

連日のライちのお世話で肉体的に疲れていた私は母親がいるからと5日はゆっくりと昼過ぎに目を覚ました。そうしたら、回遊魚に様に動き続けていた前日までとは打って変わり鳴かず騒がずにベッドで横になっているライちの姿がリビングにあった。目は開いてて息もしているが、身体が動かせず、自立も出来ず、鳴くことも出来なくなっていた。結論から言うとおそらくは癲癇(てんかん)により脳がダメージを受けたのではないかと。癲癇発作は4月の初旬頃に1度起こしており、その時は病院にすぐに連れていき、症状もすぐ収まったが。今回は就寝中に人知れず起こったと思われ、朝に母親が目を覚ました際にはこの状態だった為に私としては「しかたがない」と思う他無かった。

 5日、6日と続けて病院に連れて行ったがライちの状態は回復の兆しは見えず。7日に私は1人で薬を貰いに行った際、獣医にライちの様子を動画で見てもらいつつ色々聞いてみた。特に覚悟をして「今にも息絶えそうで…」と言った。先生は「いつ急変してもおかしくない」「どんなに心臓の強い子でも保って半月」と。「ただ本人に痛みや苦しみは無い」と言われたのはせめてもの慰めだっただろうか。

私は涙を堪えながら帰宅して、1人で泣いた。ライちの先が短かったからではない。先生から「このコ、凄く頑張っている」と言われたからだ。声や表情が出せずに感情が表現出来なくなっても、頭がボンヤリしていても、ライちは無意識に手足を動かして歩こうとしていた。そんなライちの強さ、凄さが刺さった。

猫は健康なフリが上手いとも聞いた。ライちは最期の最期まで健康なフリを止めなかった。動かなくなってもスポイトでお水を口に入れれば舌を一生懸命動かして飲むし、病院から購入した高カロリーの流動食をあげたら嬉しかったのか、顔に生気が戻ったようだった。

寝たきりになって、人間が起きている間は付きっきりでの看病で、一定時間毎にお水を与え、おしめを替え、床擦れ防止の為に体勢を変える。ここに至り私は「ライちが命を全う出来ること」を使命として自らに課していた。その前から「出来る限りのことをしてあげたい」と思ってはいたが、ここで更新された。

正直なところ、猫や人間に限らず寝たきりになった生物に対して自分が愛情を注ぎ続けられるか疑問だったのだが、その点において問題は全く無かった。愛しくて仕方なかった。側で寝たり、目線を合わせて「ライちゃん偉いなあ。」「お利口さんだなあ。」「頑張ってて偉いなあ。」と撫でながら話しかけ続けた。

8日(土)になっても相変わらずの寝たきり。結婚して引っ越した妹も駆けつけて、ライち最優先で介護にあたっていた。昼間は天気が良かったので、私が抱っこして家の外周を散歩した。身体は動かなくとも、ご飯や水を口に入れると舌を動かして食べていたので「医者が言っているほど悪くないのでは?」とかちょっと思ったりもした。

日が暮れて、私は前から借りていたコミックを友人に返すために近くの待ち合わせ場所に向かい、少しライちや各々の趣味の現状について1時間程駄弁って帰宅した。ライちは妹の腕の中に抱かれていた。妹は準備こそして来なかったが、ライちの様子を見て泊まることに決めたらしい。基本的に抱っこが嫌いなライちだったが、身体が低調になるにつれ安心感を覚えたのか黙って抱かれる事が多くなり、場合によってはそのまま寝たりもしていた。その後も、ご飯を食べたり水を飲んだりして、私以外の人間は風呂に入ったりして就寝の時間を迎えようとしていた。

夜12時頃、就寝し始める時間になったのでおむつを替えようとすると、ライちは下痢をしていた。人間だったらお腹が痛いであろう状況で、弱っているライちには尚酷だと思われた。まだ、便を出しきれない様で肛門を必死に動かしていたし、息も荒くなっていた。やはりお腹がグルグルと音を立てていたのでマッサージしながら、落ち着くのを待った。胃腸の調子が悪いのであれば便を医者に見せれば何か分かるかも知れないとお尻を拭いたトイレットペーパーを袋に入れていた。最後に排尿と便を出し切り一旦落ち着いた様だったので2階の寝床がある母親の寝室に連れていった。

 ベッドに寝かせた後にもう1度確認したらまた少し排便があったのでオムツを取り替えて、またマッサージしながらの排便待ち状態に。そして、便を完全に出し切ったかなと思った時、ライちの呼吸が止まったように見えた。呼吸を示すお腹の動きが見られなくなった。母親と妹が「ライちゃん!?」と声を出す。数秒後、お腹が動き始めた。私も心臓がドキッとしたが、一同胸を撫で下ろした。そして改めて各自就寝の運びとなったが、私はそのライちにおやすみをする時から覚悟をし始めていた。風呂に入りながら「明日の朝まで保たないかも知れない」とも思っていた。

風呂から上がり、自分の部屋でスマホをいじっていた時だった。「誰か来て!!」と母親が叫んだ。私は「その時が来た」と思いながら駆けつけた。見ると、ライちを抱いた母親が震える声で「呼吸してないよね!?」と言った。私も妹も呼びかけたが反応が無い。瞳孔も開いている。私が抱こうと譲り受けるも、全く開かなくなっていた下顎が力なくぶら下がる。また何度も呼びかけたがやはり反応は無い。私は悟り、ライちを抱きしめて「ありがとう」と言った。まだ身体が温かい内に妹にも抱いてもらった。

それから暫く悲しみが飽和した部屋にいたが、各々が何を言っていたかはあまりよく覚えていない。「下痢が負担になったかな」とか「ただ寝てるだけみたい」とは言ったと思う。私は先程会っていた友人に報告のメッセージを送り、母親が「寝る」というのでなんとか床についた。

翌朝、目が覚めた時もお昼も割とフラットな心持ちで入れた。動物病院に行き、火葬場のパンフレットを受け取る時も母は声を震わせていたが、私は気丈に振る舞っていたと思う。情緒が崩れだしたのは夕方5、6時頃からだった。前日までと同じ様に、リビングでライちの側に横たわり延々と彼の身体を撫でていたら、ジワジワと想いが溢れてきた。涙は垂れ流していた。鼻水は時々かんでいた。夕飯前になり、妹の旦那がライちの為に青と黄色のブーケを持ってきてくれた。自分もそうだが、他人がライちを想ってくれていた事はより私の感情を揺らした。

妹が着替えなどの為に一旦家に帰った後も、私はライちを撫でながら涙を流していた。前日とは違い早めに入浴をした後、ライちと2人きりになったので感情の箍を開けた。絶望や悲しみよりも、愛と感謝が止めどなく目から溢れてきた。私はライちの頭を手で包み、顔を当ててただひたすらにお礼を言った。

声をかけてくれたこと、出会ってくれたこと、ワガママを言ってくれたこと、遊んでくれたこと、いっしょに寝てくれたこと、噛んでくれたこと、ご飯をたべてくれたこと、呼んだら来てくれたこと、返事をしてくれたこと。

とにかく思いつく限りの事に「ありがとう」と言った。

そして、その夜はいつもの母親の寝室ではなく、私の部屋でいっしょに寝たいと申し出た。母親から「ライちファーストだから、あんたはそれで寝れるのか?」と聞かれて言い返せなかったが、まあそれはそれで。

最初はデスクチェアーに乗せたが、ライちは私のベッドの上に畳んである掛け布団の上が好きだったので、こっそりそっちに移動させた。そして、またこっそりと遺品として髭を拝借し、ずっとさせてくれなかったスマホゲームのガチャも引いてもらった。私はカーペットの上で寝るつもりだったが、ライちを撫でている間にウトウトし始めてそのままライちの横で眠りに落ちた。

5月10日。火葬場へ行き、みんなが用意してくれた花やよく食べていたご飯、私が手作りした玩具を棺の中に入れ、お別れを済ませて焼いてもらった。

肉体が無くなったら、呆気なさを感じたのか、拍子抜けしたのか、気が緩んで火葬場からの帰路は少し眠たくなったりもした。

遺骨は「いきなり知らないところに入れられても困るだろう」と思い、暫くは家で安置することになった。骨壷カバーは春生まれということで桜の花びら模様で、私の強い希望により色はピンクになった。室内外で毛並みが良く、しっかりとした美人さんだったのでライちはピンクが良く似合うと思った。

 

ライちが亡くなって数日。リビングのちゃぶ台に作られた仮の仏壇は少しずつアップデートを重ね、かなり賑やかな卓上になっている。

私は毎日、骨壷を撫でたり、話しかけたり、水を替えたりしている。

足の運び方や意識を割く割合などの何気ない自分の行動がライちがいるが故のものだったことに日々気付かされている。ご飯にのせた明太子がライちと同じ匂いだった事にも気づいた。

やはり16年の重みというのはかなりのものの様だ。

そういった張り合いの無さというか、肩透かし感を強く覚えているが、思ったほどの絶望感に沈んではいない。無論、悲しくはあるし落ち込んでもいる。

私は覚悟を少し勘違いしていた。覚悟はいくらしたところでしきれるものでは無かったし、覚悟はしてれば辛くなくなる訳ではなく「めちゃくちゃ辛いからご了承ください」という事だった。

 

私はライちではない。たとえライちが人間であったとしても、軽々に「ライちは幸せだった」と断じるのは私の性格上それは人間のエゴに該当してしまう。

勿論、他人が慰めでそう言ってくれたり、火葬した日の夜に通話した友人から「すごく幸運な猫だし。(私の「完璧ではないかもだけど、出来る限りの事をしてあげたい」に対して)完璧だったと思うけどね。」と言ってもらえたのは嬉しくもある。

ライちが幸せだったかどうかは私には分からない。けど少なくとも私はライちがいてくれて幸せだったし、もしライちも幸せだったんだとしたらそれはこの上なく嬉しい。ライちの幸せに対して私は願うことしか出来ない。

私に言わせれば、ライちは最期の最後まで凄く頑張ったし、お利口さんであり続けた。

「天国なんて無い」「死んだら誰しも無なだけ」なんて言う人がいるが、じゃあ聞きたい。「あなたは死んだことがあるんですか?」。まあ、そう考えるのは勝手だし、私もそう思っている部分もある。でも虹の橋の事や輪廻転生や天国があるって考えるのはロマンやセンスが有ると思う。そして、そうした考えが遺族にとって癒やしとなるなら、それこそ必要なものだ思う。

兎にも角にも、私はこれからもライちを愛し続け、生涯忘れることはないだろう。

多分ここに書きたかったのは「私はこれまでもこれからもライちが大好きで堪らない」という事。と、ひたすらなライち自慢ですね。

 

今後も、ライちとの思い出を思い出してはここに綴っていくかも知れません。

 

9日に泣き続けたせいで右眼の瞼にバイ菌が入ったらしく、10日は痛みが有り、11日からは腫れも追加されたので、12日に眼科に行ったら「化膿しかかっている」と言われた。

ライちも寝たきりになってからは右眼が見えて無さそうだったから「これは置き土産かな…。」なんて事を考えています。

 

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