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アニメや映画などを観て感じたこと、想ったこと。ネタバレする場合有。

TVアニメ『テイルズ オブ ゼスティリア ザ クロス』雑感

 

はじめに断っておきますが。本投稿は2016年に1期、2017年に2期が放送されたTVアニメ『テイルズオブゼスティリア ザ クロス』(以下『ザクロス』)の感想を書くものであり、リリース開始から何かと話題の某スマホゲームについての言及はしませんのでそのつもりで。

 

放送終了から3年以上経ち、ようやくちゃんと見る気になったザクロス。記憶が不確かなのですが、2期のエンディングを見た覚えがあるので、リアルタイムでは途中で飽きたか満足したかで止めたんだと思います。当時の私のテイルズオブゼスティリアに関する心境はと言えば、2015年の1月に発売された原作のゲームソフトを購入しメインストーリーと「その後」を描いたDLCもクリアはしましたが、決して褒められたものではなく落胆していたことを憶えています。そんな原作への気持ちがある中でTVアニメ化という話を聞いても期待を持ちづらかったであろうことは想像出来ます。

なんだか暗い思い出が蘇ってきましたが、今回はザクロスを褒めるつもりで書き出したので、そろそろ本題に入ります。

 

 

 

ufotableのファンサ〜

 今回のアニメーション制作を担当したufotable。2011年発売のテイルズオブエクシリアからシリーズのアニメーションパートを作っている会社。これまで『空の境界』や『Fate/zero』などのTYPE-MOON作品を中心にいくつかの作品を個人的に観てきてはいる。で、ザクロスを観終わるに至って感じたことがいくつかある。

基本的に原作付きの作品をアニメ化することが多く、作画がカット単位で整っており綺麗であること。このあたりは見てもらえればすぐに分かると思う。

後は、原作が先ずあってのアニメ作品が多いということで原作ファンへのアピールも重要になってくるだろう。ザクロスで言えばスレイとミクリオ、ロゼとアリーシャという組み合わせ。原作ゲームでも描かれてはいたが、アニメ化にあたって特にロゼとアリーシャの仲はより対等かつ深くなったという印象を受ける。

また設定の調整にも関係してくるが、最終決戦前の集合地をカムランからメイルシオにしたり、グリモワールを登場させたり、悩めるスレイにベルベットがアドバイスしたりとベルセリアをプレイしたファンへの分かりやすいサービスが目立っていた。

 

 

 〜ゲームの枷とアニメの自由〜

ゲーム版をクリアした当時もツイートしていましたが、キャラクターや設定などの素材自体にはさほど問題は見受けられないと思います。となると後はどう調理して、どのような料理にするかです。

RPGというのは物語を創作するだけでなくシステムと絡めて制作するものですが、ゼスティリアに関して言えばそれが奏功せずに枷となり相乗していったように感じます。システム的にしようがなかったとしても、ゲーム版の裏切りや従士としての能力など、特に批判されているアリーシャの不遇さにほとんど直結しているので擁護はちょっと難しいです。

ザクロスの場合は後出しジャンケン的に制作出来たのと、システムに縛られずキャラクターを動かせたので良い作品になったのではないかと思います。基本的な設定や立ち位置を受け継ぎつつ、シリーズファンの「こうなって欲しかった」を拾っていった結果ではないかと。アリーシャ周りの改善やゲームでは難しそうな四属性神依などが代表的なところでしょうか。

終盤のスレイの行動は同じなので、過程をざっくり言葉にすると「ゲーム版はバッドルート」って感じかな。アニメも特別ハッピーというわけではないけど。

 設定で大きいと思ったのがドラゴンの浄化問題。ザクロスもゲームもエドナの兄であるアイゼンをひとつのキッカケとして悩むのは同様だが、結論が真逆になる。

ドラゴンは天族が憑魔化した姿でその大きすぎる穢れ故に単にそれまで浄化した前例が無かっただけとしてスレイを筆頭にパーティ全員で挑み見事浄化に成功した。

一方ゲーム版では浄化方法が無いまま、諦めて討伐する結論に至り、各地で様々なドラゴンを倒して周っている。

ゲーム版はエネミーを設定しないといけないという枷があるにせよ、ベルセリアでアイゼンと散々共に冒険をしたプレイヤーにとっては尚更「何とかならないのか!?」と感じてしまいました。

 

〜導師と災禍の顕主〜

スレイとヘルダルフを対比するキーワードとして「孤独」がある。

スレイは導師としての孤独。憑魔からの穢れは基本的には導師が引き受けることになる。それは天族であっても出来ないことだし、契約した従士に分けることは出来てもサポート程度。だから導師は常に孤独な戦いを強いられる。けど、仲間はいる。穢れを受ける役割を成り代わることは出来なくても、いっしょに戦い、サポートしてくれる天族や従士がいるので精神的には支えがあるし、スレイが頑張れた一因かも知れない。

ヘルダルフは穢れという意味では自ら仲間を生み出せもするし、眷属的な部下のような存在は非常に多い。サイモンもいるし。しかし前代導師を裏切った際にかけられた呪いが彼に孤独を与え続ける。それは誰とも関わることを許さず、敵である導師と戦闘の最中に言葉を交わすことさえも禁じてしまう永遠の呪い。そしてそれこそが彼を災禍の顕主たらしめた原因である。

導師と災禍の顕主はお互いに孤独を抱えている対極の存在であり、劇中で描かれる最も恐ろしい穢れとはヘルダルフが抱える真の孤独だということ。

 

 

〜情熱が世界を照らす〜

ザクロスはゲームの結末を準拠しつつ、ゲームではボカし気味だった部分をハッキリと描いている。この描写の多さについては好みが強く分かれるかも知れないが、最後まで見た私は晴れやかな気持ちになれたので肯定をしておく。

ヘルダルフを浄化し終わり成長したミクリオの元に戻ってくるスレイ。再開を喜び、改めて遺跡探検に心を躍らせる2人。そして神依化し、空を飛び、穢れが適正値に落ち着いた世界を目の前に「これが、世界!!」というスレイの言葉で幕を閉じる。

ゼスティリアのジャンル名は「情熱が世界を照らすRPG」。人々の穢れに満ちていた世界を情熱(zest)を持ったスレイが陰りや淀みを晴らしていく物語。そうやって光を当てていった先に待ち構えているのはスレイが情熱を燃やす世界の理、全て(そういう意味ではスレイとロゼの共力秘奥義がアルティメット・エレメンツだったのは納得かも)。

物語上、暗いシーンが長く多いだけに最後に至って美しい世界が見渡せるというのは非常に気持の良いラストカットでした。

穢れに関しても「適正量」というところが重要で。

穢れとは誰しもが持つものであり、完全には消しされない。それを理解した上で受け止めることが大事。自らの穢れを認め、戒めながら生きていくからこそ人は強くなれる。

ということが作中で何度か語られている。

 

〜最後に〜

 

テイルズオブゼスティリアというコンテンツに触れた時にザクロスがあって良かったと思える作品でした。

暗い話が多いのはゼスティリアに限った話ではないのですが、腑に落ちる解決が少なかったと感じる人が多いのがゲーム版なんじゃないかなと。まあ、ここまできてゲーム版をこれ以上批判するのも今更感あるのであまり深くは言いませんが…。

とにかく。次作として発表されている「アライズ」も、おそらくはCOVID-19の影響で、開発が順調ではないようですが(以前は2020年内に発売予定だった)。

出来れば焦ることなく、腰を据えて完成された良い作品を作っていただきたくお願いする次第でございます。

 

 

現地時間1月26日

私は他人の誕生日などを覚えるのがあまり得意ではありませんが、この日と8月23、24日はきっと忘れないでしょう。

あれから2週間経ちました。

まず言っておきたいのは、私は決してあの事故のことを乗り越えたわけでも受け止めきれたわけでもない、ということです。

存分に吐き出せるところがここしか無いと思い書こうと思いました。

正直、このような事で更新したくはなかったです。

 

 ∞∞∞∞∞∞∞∞

私は、決して元気ではありませんが、生きてはいます。

アニメも映画もとても見る気になれず、TVアニメ1話だけ試してみるものの圧倒的なしんどさからその後の視聴を断念しております。毎日やってたFGOも今は辛うじてログボを得てるだけ。

Twitterメインアカウントで「無理。」と言い残してからのこの2週間は間違いなく私の人生で最も辛く悲しい日々でした。

人が亡くなって初めて泣きました。目頭がかぶれるくらい泣きました。

もうKobeのことしか考えられなくなり、Twitterでひたすら検索しfav魔と化していました。

おおよそ好奇心と呼べるものが消失してしまい、ひたすらにKobeの影を追うだけの存在となりました。

皆さん仰られていますが、同じような気持ちを抱いている人たちがいるということを知れて多少なりとも気が楽になった気はするので、そのあたりはSNSでの繋がりに感謝しております。

しかしSNSは片手でスマホを起動すればできますが、日常生活はそうはいきません。

人と会うのも辛いし、喋りたくなんかないし。かといって静かなのも何だか残酷で。湯船につかっている時や床についた時の静寂がひどく辛かった。いろいろ考えてしまうから。

 

なんで?どうして?なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで?

これからDuncan、Garnettたちといっしょに殿堂入りして、

StaplesCenterの前に銅像つくってもらって、

たくさんの物語を生み出して現役時代みたいに私にあーだこーだと勝手なこと言わしてくれるんじゃなかったのかよ。

SHAQもPauもT-MacもLeBronも、Vanessaさんや娘さんたちすら置いていくなんて、馬鹿野郎!!クソが。畜生。ぶん殴ってでも目覚めさせてやる。

もし天候が良ければ、もう少し様子見できていたら、脱出できる状況だったら、アヴェンジャーズがいてくれたら…。

MJと比肩する負けず嫌い、これからやりたいことが山程あるのにヘリの墜落なんかに負けないでほしかった。

目的地までもう少しだったのに。

…こんな想いが溢れ出てきて、でも私は悲しみながらTwitterを眺めることしか出来なくて。 胸にポッカリと穴、どころじゃなかった。涙は1週間程で出なくなりましたが、生き方や息の仕方を忘れたような。果てのない虚しさと脱力感。

こんなにも悲惨な事故を突きつけられても試合をしなければならないプレイヤーたち、コメントを待たれる親族や著名人、番組や仕事をやらなければならない人たち、SNSで気を遣いながら更新する人たち、オフ会などの企画を立ち上げる人。みんななんて凄いのだろうと思いながらこの2週間過ごしてきました。同時に人間社会の残酷さも改めて味わいました。

私は未だに趣味に手がつかず、呆けていることが多いです。

 

 ∞∞∞∞∞∞∞∞

そもそも私がKobeという名前を知ったのはNBAを見始める2001年から約3年前の1998年。当時、毎月買っていたコミック誌月刊コロコロコミックの読み切りマンガ『シューティングスター コビー・ブライアント物語』でした。

その時はそういうプレイヤーがいるという程度の認識でしたが、いざNBAを見始めた時にLakersは3連覇がかかったシーズンで、Kobeもスターとして認識されていて見る機会も多かったせいかアンチにはならず、ストレートにファンになりました。今となってはファンになった瞬間は覚えていませんが、フィラデルフィアでのオールスターの時には既にファンになっていたと思います(MVPとして表紙を飾ったHOOPとDUNKSHOOTどちらの表紙が好みか考えていた記憶はあるので)。

あまり細かく話すとキリがないので可能な限り端折りますが、その後引退してからも含んでだいたい18年ちょっとでしょうか。

勝ったり敗けたり。

色んなチームメイトやコーチが来たり去ったり。

「やっぱKobeの得点だけのびてもプレイオフじゃ勝てないよな〜。」

うおおおおお!!生Kobe!!!イベント開始3時間以上前から炎天下の中で膝が笑うほど待ってたけど、目にした瞬間手の震えに変わった!こんな美しい身体の人間いるんだ。

3Qまでの得点、Mavs61-Kobe62!!!!www

「81点?チームの総得点の話か?え!Kobe単独で!!!?」

「ここは打つな。ほらやっぱり。Kobeなら打つと思った。」

SHAQとの仲直りオールスターMVPは感動したな。

Pauをはじめ2連覇に貢献してくれたみんな、最高でした。

NashとDwight来たところでそう簡単に勝てたら苦労しませんよ。

アキレス腱切ったのに歩いてFT2本とも決めやがるし、悔し泣きするから私も貰いそうになったよ。

リングでMJに並ぶのはもう無理そうかなあ。でも通算得点は抜いたし、もう引退秒読みかなあ。

あああああああああああああああああ!!!!(五体投地)in引退試合

オスカー獲って「自分の人生における最大の成功がバスケ選手としての成功だとしたら、それは失敗だ」を有言実行しやがった。すげえ。

今シーズンはLakers勝率いいし、Giannaちゃんとよく試合観に来てるから、またバスケに携わっているKobeを定期的に見れることは嬉しい。

と、ずっと彼のファンであることを楽しんできました。

Kobeは私にとって最初にして最高のアイドルでありヒーローです。そしてもしかしたら、親であり兄弟であり友人でありライバルであり教師であり先輩でもあるのかも知れません。

 

 ∞∞∞∞∞∞∞∞

最初に言い出したのが誰かは存じませんが、「今回の事故を耳にした時にどこで何をしていたかをみんなそれぞれ記憶に焼き付いているでしょう」という言葉を耳にしました。

私は出かける準備をしていて、食事を摂っていました。カップきつねうどんとTKGだったと思います。Twitter開いてTLを更新して見始めた瞬間でした。ゴシップではなく、日本のベテランNBA記者の方のツイートでした。もう訳が分からなくなり、食欲が無くならないうちにとにかく食事を済ませようと必死にかきこんだのを覚えています。

そこからのTLは既に悲しみに溢れていて、私は「無理。」と打つだけで精一杯で、あとは冒頭に書いた通りで今に至ります。

ここまで2000字以上打ってきて、私は「Kobeや被害者の方たちの今の状態あるいは事故の結果」について直接的な表現を意図的に避けてきました。それはきっと現実を認めたくない気持ちがあるんだと思います。「Kobeはみんなの中でマンバメンタリティとして生き続ける」「彼が遺したものを受け継いでいく」それらは素晴らしい志だと思いますが、私は「何も遺さなくていいからとにかく生きててくれればそれでいい」とも思いましたし。今からアンチになろうかと少し迷いました。Stern前コミッショナーの時も使ったあの三文字が言えない、言いたくない。部屋のKobeコーナーも作りかけのまま。合掌したくないし、黙祷も気が進まない。言えて「see you again」。

けど一方で、素晴らしいスピーチをしてくれたLeBronやトリビュートをしてくれているプレイヤー、チーム、世界中の人々に敬意を表したい気持ちもあります。もちろんVanessaさんたちBryantファミリーにも申し上げたい気持ちはあるし、支えに行ってくれているというMcGrady夫婦に「ありがとう、頼んだ!」とも思いました。私があの世に行った時はサイン欲しいし、ハグしたいし、言いたい事も沢山ある。生まれ変わってもきっとまた貴方を見つけるし、あなたのファンになる。

きっと今はそんな色々な感情が入り混じった状態なんだと思います。

 

(Wiz Khalifa ft. Charlie Puth『See You Again』ってもうアメリカだとこういう時のお決まりになってるんでしょうかね。私もトリビュートで動画作るなら曲はこれしか浮かばなかったので、ハーフタイムできた時には納得しかなかったんですが。)

 

 ∞∞∞∞∞∞∞∞

正直、この状態がいつまで続くのか分かりません。好奇心は雀の涙程度なら回復してきている感覚はありますが、元に戻るのか戻らないのか。

3日後には回復するかも知れませんし、数カ月後も変わらない可能性もあります。

こんな状態初めてなので。

焦らない、無理は極力しないという方針だけは立てて日々をなんとか生きております。

それくらい今回の事故は私にとって大きかった。自分の半分以上を吹っ飛ばされたような、目の前に突然原爆が落ちてきたような。

やはり何よりダメージを喰らったのは心の準備というものが全く出来ていなかったからでしょう。ある程度お歳を召していたり、闘病中だと聞いていれば受け入れやすかったでしょうが。あまりにも突然過ぎました。

 

復興への道程は遠い。

 

もし、いればですが。ここまで読んでいただいた方がいらっしゃいましたら、ありがとうございます。頭もほとんど機能していないので読みにくかったり、気に障る表現があったかも知れませんがご容赦ください。

 

今、最後のまとめとして。

SNS(主にTwitter)で勝手にフォローさせてもらって、勝手になにかを受け取らせてもらってる皆さん、ありがとうございます。お陰で生きてる人がここにいます。

Vanessaさんが立ち上げたMambaOnThreeFUNDには募金しました。

2006年に代々木コートにKobeが来た時に撮った写真を載せます(イベント後半にKobeが観客とハイファイブしにコートの柵に沿って一周してくれた。私は右手首に触れました)。

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私は生涯Kobe Bryantファンであり続ける。

 

と、言えるのはこれくらいです。ではまた。

※何か思い出したら書き足します。

『アヒルと鴨のコインロッカー』感想

私は読書感想文というものを書いたことがない。

正確には、書いたかどうか覚えていない。

小学生や中学生の頃、宿題という名目で課される文章を書く行為にやる気など微塵も無かったんだろうと想像している。

レポートは相当数を書いた覚えはあるが、文章やレポートの作り方を意識して理解しだしたのはそれを書く必要がなくなってから。

私はそのあたりに関してはある程度自覚的だ。要は、他人から課されたり、急かされたりしている間は基本的にモチベーションは低空飛行どころか地面を転がっていくか、もしかしたらドリルや酸素ボンベが必要という程かも知れない。

(まあ、例外もあるけれども。)

Twitterやブログなどで気が向いた時にこうして文字を並べているのは、作文というものに親しんでこなかった反動も一因しているんだろう。

 更に、活字だけのメディア、小説や新聞、にもほとんど触れてこなかった事で苦手意識がある。しかし、映画やアニメを嗜む上でそういったものにも手を出していかなければと腰を上げる機会も、以前に比べれば増えた。

そういった流れが出来た中で「一度は読書感想文みたいなものを自分なりに書いてみたい」と思うようになった。

 

そうしたお膳立てが少し出来、それとは別に私の読書モチベが幾らか貯まってきたところで『アヒルと鴨のコインロッカー』を読み、今回の当記事に至ったのであります。

この作品、文庫を頂いたのは昨年なのですが、ようやっと読みました。読み始めるまでが長かった。読み始めたら4日で読み切れました。私としてはかなり早い。

で、冒頭の話。どうせなら読書感想文の文字数に当てはめて書いてみようかと思い調べると、中高生が2000文字以内らしいのでそれを基準に思ったことを文字に起こしてみました。だいたい1600字ちょっとに収まりました。

 

 

 

 

※ネタバレ注意

 

 

 

※繰り返しますが、ネタバレ要注意。

(小説や映画でこの作品を最後まで観てない方には決してオススメできません。自己責任でお願いします。)

 

 

 

 

 

 

 

違和感の様なものはあった。言葉の繋がりとして理解はしていても、間隔の狭いボタンをかけ違えた様な引っかかりを。私はお世辞にも小説を読んでいるとは言えない程度の読書経験しかないので、違和感を自覚出来れば御の字だと思うし、人知れず読み終わった後でなら何とでも言えるとも思う。アニメや映画よりも振り返りが難しく思えるのは私の経験値や慣れの所為だと思うが、それ故なかなかこの感想文を書くにあたっての落とし所を見出だせなかった。
そんな経験値なので勿論、伊坂幸太郎の作品だって初めて読んだ。読み始めに感じたのは「過去と現在を代わる代わる区切って描いていくスタイルは本当にプロもやるのか」という事と、自分がものを書いた時に使った覚えのある中盤の出来事を冒頭に持ってくるという手法が被った事による奇妙な自尊心だった。
読み進めていくうちにこの過去と現在のスタイルには少々覚えがあった。映画「ブルーバレンタイン」を思い出した。「アヒルと鴨のコインロッカー」とこの映画の内容が似ているかは兎も角として、スタイルに関して先ず想起したのはこの作品だった。他には、アニメーション監督神山健治の著書『神山健治の映画は撮ったことがない』(4頁〜6頁)において「観客を飽きさせない手法として、小さな疑問をコンスタントに作りその答を示していく」という様な内容が挙げられていたが、本作品においてはそれが充分に感じ取れ、それが読み進めやすさの一因だろうとも思う。更には、河崎の正体が明らかになってから点が線でどんどんと繋がっていくカタルシスは、映画やアニメでも幾度か覚えがあるが、気持ちのいいものだった。
演出で特に印象深いのはバッティングセンターで琴美が河崎に病気について詰め寄る場面。背景で少年が快音を響かせており、同様に琴美の話が河崎の芯を捉えている事が分かる。「演出で表現する際に当人の仕草や自然や無機物ではなく、赤の他人に頼っても良いのか」と思った場面だった。小説の読み方がひとつ分かった様で嬉しくもあった。
物語についてだが、伊坂幸太郎に関して伏線やその回収を相当にしてくるという話は聞いていたので、多少なり気を配りつつ読んでいたのだが、結論を言うと(予測というよりは)予感が当たったのは「現在において琴美は亡くなっており、それがあの3人組によるものだ」というあたり。
伏線に関して最も気が遣われているのは河崎とドルジの件だろう。そこに関しては入れ替わりまでは思い至らなかったが、河崎が生きているともあまり思えずに過去編を読んでいた。このあたりは読み返せば色々と納得できる事が増えていくだろうし、容姿に関しても序盤で椎名によって語られてこそいるが、過去の河崎とは矛盾する点もある。言い訳をするなら、麗子さんが内面的に変わっていたので2年という年月を考えると「いろいろ」変わるには充分すぎる時間だと自分に説いていたというところだろう。このあたりの文章という形態を活かした謎としては2018年5月中旬にスマートフォンゲーム「Fate/Grand Order」で開催された「虚月館殺人事件」という推理イベントの経験から膝を打つことはあっても、推察できなかった悔しさは無かった。
この物語、誰が主人公かと言われて絞るとすれば琴美と椎名だと思う。理由は単純に地の文が彼らの視点からなっているから。更に言うと。琴美はクロシバ探しと猫の埋葬から始まり相関図の中央にいる物語の起点であり中心人物。椎名は一連の流れが収束しかかった時に終止符を打つべく投入された当事者であり、懺悔を聞く神父のような部外者。
そして、琴美も椎名もドルジも河崎も物語の結びにおいて舞台となる街からいなくなっている。過去の事件を現在と同時進行させながら語っている効果か、琴美の様に恐怖したり憤怒したりはしても何処か感情が湿りきらない感覚があった。もう過ぎ去った事として傍観者という感覚が相当にはあったんだと思う。それが椎名の視点として長いこれからの人生において風に吹かれていくようなほんの数日の出来事を越えて次の人生に向かっていくことであり。一方で琴美は動物たちの死に対する見ないふりをやめ勇敢にも自由のために戦い、彼女もまた次の人生にむかっていったんだと思う。
それでも神はあの街に残り、1人歌い続ける。傷ついたひとを慰めるように、理不尽を告発するかのように。

 

静かに未来に願う(『リズと青い鳥』感想)

※2018年5月12日時点。まだまだ汲み取りたい所はありますが、現時点での記録として。

 

 

 

 

 

【 】

「良い予感しかしない…。」

公開前、映画館やCMで目に入ってくる『リズと青い鳥』の情報に私は漠然とそんな思いを抱いていた。

その根拠の大半はおそらく、『たまこラブストーリー』や『聲の形』を作り出してきた山田尚子さんが監督だという期待だったと思う。さらに脚本が吉田玲子さんとくれば、私に「期待するな」という方が無理な話。観賞当日も早起きしてアサイチの回に行くのではなく、睡眠をしっかり摂った上で臨んだ。

そしてこの作品はそんな外側の盛り上がりに脇目も振らず、静謐に、恭しく、真摯に、只管に、されど確かな温もりを孕みながら始まり、そして終わっていった。

 

【 】

初見時終盤、劇場内ですすり泣きが少なくとも複数聞こえてきた時は「無理もない」と思った。私はというと泣きはしなかったのだが、序盤、おそらくアバンが終わりタイトルが出る前後あたり、に泣きそうになった。

私はアニメや映画を観ていてもあまり泣かないし、泣くとしても物語の積み重ねありきの終盤で、こんな序盤に泣きそうになるのは初めての経験で動揺した。おそらくは画面から伝わってくる何かが凄すぎて感動したんだろう。

それだけ1カット毎の丁寧さが尋常じゃなく伝わってくるし、キャラクター1人1人の一挙手一投足から目が離せない。しかし1度では追いきれないというある意味ですごく挑戦的な作品だと思う。

2度目は序盤から目を動かし続けて出来る限りの情報を拾っていこうとして終盤に疲れてしまったんだが、不思議な事に疲れても集中力が途切れる訳ではなく気付いたら作品に呑まれて無心で観賞していた。

呑まれると言ってもこの作品においては引き込まれる引力というよりも、水に落とした絵の具の様な気付くと周りが染まっているといったイメージを私は持っている。

 

【 】

言うまでもないと思うが、この作品の焦点は鎧塚みぞれと傘木希美であり、2人の関係性だろう。この2人以外で、既にTVアニメにおいて登場済みのカップリング(関係性)はブレがなく、今回の作品においては目立った揺れは受け取れなかった。むしろ、久美子と麗奈…、特に麗奈がみぞれに意見した時は頼もしさすら感じた程だ。周りがブレないからこそ揺れている、変化していくみぞれと希美の為の作品であると一層強く感じた。

 

そして、結論から言うとこの作品は殻を破る話、閉じた世界から飛び立つ話だと思う。

では、殻を破り飛び立ったのは誰か。

私は鎧塚みぞれと傘木希美の2人ともだと思っている。もう少し言えば、劇中に出てくる絵本の登場人物の置き換えると2人ともリズであり、2人とも少女だということ。

梨々花から希美に渡されたゆで卵、

絵本のリズと少女は声優が一人二役

登下校を最初と最後でしか描かずに下校時は2人いっしょ(登校の順番は殻が出来てしまった順番?)、

暗喩とも取れる表現が様々あるが個人的に決め手になったのは、

終盤、みぞれ→希美と別々に映るカットが切り替わる所、みぞれ後方の窓の外に青い鳥が飛んでいく。みぞれが飛び立てた演出かと思って観ていたら、直後の希美の後方でも同様に飛んでいった。

という部分だった。

もう少し言うと。disjointからjointへの変化。みぞれと希美の関係性にそのまま当て嵌めるという解釈も出来る。そしてまた、それぞれが外の世界へと繋がる(joint)という解釈も出来るのではと私は考えている。

 

 

先で、結論と言ったが、この作品において「結末≠人物の最後や全て」という事も頭に留めておきたい。いや本来どの物語にもこういう性質は有ると思うのだが。

 

劇中において希美が印象的に口にする「物語はハッピーエンドがいいよ。」、これは結末ではなく、願望なのだろう。彼女たちには過去があって未来があり、この作品はその中での今を切り取っているに過ぎない。そしてみぞれの「ハッピーアイスクリーム」によって少し先の未来を決める。

2人の世界が広がる時期を描き、「ハッピー」の言葉によって少しの希望を未来に添える。そしてまた2人は歩いて行く。この作品が終わっても、彼女たちは生きていくのだから。

 

2017年に観た映画

【はじめに】※10選だけ見たいなら読み飛ばしてもいいかと。

 この時期になると毎度なんですが。

極端な話、クリスマスだの正月だの祝日だの休日だの平日だのは別に無きゃ無いでいいと思っていて、全てが「ただの1日」になっても良いんじゃないかと考えるんです。ざっくりここ10年くらいずっと。

一方で、所謂こういったイベントを楽しもうと精を出すのは人間らしい文化的な行為だと思うので、楽しむのは大いに素晴らしいとも思います。

 

そしてこれも毎度言っているとは思いますが、年という括りにおいてキリがいいので映画10選挙げます。

このテーマでブログ(去年まではTwitter)を更新するにあたり、私が考える前提がいくつかありまして。

・ベスト10ではなく10選なのは、あくまで個人的嗜好に基づいたものであり、色がまったく違うものに共通の評価基準を設けた上で優劣をつける事は難しいし、なにより面倒だから。

・対象作品は。私が普段通える距離にある映画館にて、2017年中に公開開始された新作映画。

・ネタバレ覚悟。

・新作50+旧作45=計95作品。新作内訳アニメ16本、洋画34本。

といったところです。

では、始めます。

 

 

 

【10選】

・「xXx: Return of Xander Cage」(「トリプルX:再起動」)

帰ってきてくれた我らがヴィン・ディーゼル。加えてドニー・イェンにルビー・ローズと素晴らしく好みなキャスティングで送られてくるシリーズ3作目。3作目として、1作目は勿論のこと、個人的に好みではなかった2作目すらもすくい上げてくれてテンションがダダ上がりだった。

「X」の概念が、日本で同時期に放送されていた某けものアニメと14作目に突入した変身ヒロインアニメを合わせたようなものになっていて作品世界の拡がり、許容力の高さに時代を感じた。

初代ザンダーの魅力であるアクションスポーツ再興に加え、勿論ドニーのアクションも素晴らしかったし、セレーナとアデルが背中合わせになった時は感謝しかなかった。

 

 

・「La La Land」(「ラ・ラ・ランド」)

人生は選択によって紡がれていき、我々は常に選択をし続けている。

デミアン・チャゼル作品は「Whiplash」に次いで2作目、ミュージカル映画はほぼ未経験でしたが、楽しめるかという疑問は結末で吹き飛ばしてもらった。

まあ、正直途中までは「初めてのミュージカル映画」くらいの感じで単に楽しんでいました。ですが最後の最後で持っていかれました。あれには参りました。

 

 

・「Moonlight」(「ムーンライト」)

キュンキュンな映画、などという言葉を使うのはあまり気乗りしないので、美しい画面の中に描かれる美しい愛の物語。

シャツの色が変わっていくのが受容の証かもだとか、マハーシャラ・アリ素晴らしいとかありますが、シャロンがとにかく可愛いかった。その仕草ひとつひとつにケヴィンへの愛情を感じ、外見が変わっていたとしてもその愛は変わらない。

 

 

・「Arrival」(「メッセージ」)

ジェレミー・レナーがコケる映画、それも間違いではないけど。

言語の可能性を突き詰めていくような作品であり、「ラ・ラ・ランド」とは逆に未来を肯定する話。

単焦点映像で、第二者or第三者視点でありながら自らも夢現としているような演出で、映画の楽しみのひとつである「体験」を実現していた事が印象的だった。

言葉によるコミュニケーションの難しさ、言葉の大切さを意識したいと考える自分にとって非常に強い作品になった。

 

 

・「The Light Between Oceans」(「光をくれた人」)

デレク・シアンフランス監督、原作付きとはいえまた少し違った家族の提示。

邦題も良いですが、原題も素晴らしい。舞台になっている孤島の灯台、ルーシー・グレース、葛藤する登場人物たちといくつもの意味が張られた素晴らしいタイトルだと思った。

決して良いことばかりでないし、途中からはサスペンスを交えつつバッドエンドに向かう様な本作だが。そんな嵐の海で灯台を見つけるがごとく、一筋の救い、赦しをくれる処に私は惹かれた。背負う罪と与える罰が必ずしも一致するとは限らないとも思った。

 

 

・「Baby Driver」(「ベイビー・ドライバー」)

辛い現実の中にいながらも優しさを忘れなかった人間の話。

特筆すべきは音と映像。物語、主人公ベイビーの状況、生活音、音楽が凄まじいペースでリンクを張ってくる。

私としては、稀に見るレベルの映画然とした映画だとも思った。

真似をしたくなるかもだが、公衆の面前では真似をするのは色んな意味で危ない。

 

 

・「Dinkirk」(「ダンケルク」)

最初のカットを視た時点で「あ、これ、ヤバいかも。ノーラン、キレッキレかも。」と思った本作。

ノーランの現時点において最新かつ、ひとつの区切りとなっていく作品かもしれない。

メメント」や「インターステラー」から培われた時間の使い方、ダークナイトシリーズでも見られた犠牲的精神を持つ孤独な英雄と立ち上がる民衆、様々な要素を3幕構成ではめ込み濃縮していく妙技。凄まじい画力が押し寄せてくる。

その上で、「撤退を是」とし、ひとつの命が救われるまでをしっかり描いたところがより私好みでもあった。

 

 

・「Hidden Figures」(「ドリーム」)

暗くなったり、湿っぽくなりそうな人種差別というテーマを知性とエンターテインメントで描く作品。

黒人女性が白いチョークを手に取りその知性によって自らを認めさせていき、音楽や主役3人の言動とあいまって最後まで気持ちよく見れた。

トドメの台詞として「あなたがそう思っている。という事を知っている」は個人的に最高のカタルシスでした。根っから意識している差別主義者もいるのかもだが、差別を受ける側が感じる重みはヴィヴィアンの様な「無自覚な人々」からのものが多いと思うので、あそこでキャサリンが言ったこの台詞は素晴らしいと思いました。

 

 

・「Homo Sapiens」(「人類遺産」)

音楽も台詞も省いた映像を流すだけの単調な作品、そう思っていた時期が私にもありました。

しかしそこには物語があり、演出があり、確かに映画がありました。

まず、オープニング直後にまだ廃墟というには不完全かと思われる福島の映像を流す事により、いきなり観賞前のこの映画に抱く既成概念の様なものを壊され、相当の挑戦心を見せつけられる。

そして、台詞や音楽が無くとも語りかけてくる映像の数々。観客はそれぞれが内に持つ引き出しの中から映像の印象に紐付けし、またその場所の過去や未来を想像していく。

更に、最初と最後を繋げ、あくまで自然を使い登場人物(建造物)をフェイドアウトさせることにより幕引きを図る。

映画作りにおける物語や演出。これらによって引き起こされる観賞における想像や考察を充分に孕んだ作品だと思えます。

 

 

・「IT: chapter one」(「IT/イット ”それ”が見えたら、終わり。」)

「You'll float too.」。この台詞を気付いたら何度も口にしていました。

2016年あたりからホラー映画にも徐々に手を出し始めた初心者な私が(覚えている限り) 初めて劇場で観たホラー作品がこちら。

本当に恐怖に慄きながらの観賞になりましたが。子どもたちの青春物語としてだけでも機能しそうな処に、ホラー要素をトラウマというカタチで掛け合わせる構造を分かりやすくリメイクしてくれたと思います。

(リメイクって言葉でいいんだろうか…。)

後は、ペニーワイズというキャラの魅力。公開後のSNSでの印象が多分に含まれておりますが、様々な技術を駆使する恐怖のプロに私はすっかり持って行かれたわけですが。少なくともこの映画は、恐怖した感情が大きければ大きい程に比例して作品を楽しんだという証にもなると思うので。つまり私はこの上なく楽しんだと言っていいでしょう。

勿論、子どもたちも非常にかわいい。仕草や言動にも拘りが見受けられ素晴らしかったです。

 

 

【候補作】

ここは載せようか迷いましたが、今回はブログを使うということで試験的意味も多少兼ねつつ。★がついている作品が上記10選作品です。

 

☆「劇場版ソードアート・オンライン オーディナル・スケール

★「xXx: Return of Xander Cage」

★「La La Land」

☆「Kong: Skull Island」

☆「Ghost In the Shell

★「Moonlight」

☆「Guardians of the Galaxy vol.2」

☆「Manchester by the Sea」

★「Arrival」

★「The Light Between the Ocean」

☆「Hacksaw Ridge」

☆「John Wick chapter 2」

★「Baby Driver」

★「Dunkirk

★「Hidden Figures」

☆「Blade Runnner 2049」

★「Homo Sapiens」

★「IT chapter one」

☆「Thor: Ragnarok

☆「ガールズ&パンツァー 最終章 第1話」

 

【旧作観賞】

ウルトラマンジードの為にベリアル作品を観たり、ライアン・ゴズリング主演作品をいくつか観たり、プリキュアASDX&NSシリーズを見直したりしていましたが、最も印象深かったのは「Fast and Furious」シリーズでした。

途中には好みではない部分も多々あったかもですが、それらをすべてすくい上げようかと言う程に7作目は素晴らしかったと思います。特にポール・ウォーカーがどれだけ惜しまれているか、そして、素晴らしいファミリーの中にいるかを少しだけ理解できたと思っています。Rest In Peace。

 

 

【最後に】

今年は体感的に洋画が良いと感じていて、上半期6月の時点で「これ、上半期だけで10選いけそう。下半期いれると難度かなり高くなるんじゃ…。」と思っていたが案の定でした。正直、上に挙げた作品たち、特に「マンチェスター〜」はかなり迷いました。 

この記事を書くためにツイログとか振り返っていて気付いたんですが、「ダンケルク」の英語綴りをあちこちで「Dinkirk」と誤記してました。「Dunkirk」だと「Dun」と「kirk」で英語っぽい発音とそれっぽくない発音が混在している様な気がするという自分の勝手な違和感が出てしまった結果だとは思うんですが。何故ここで「i」になったのかは多分ドイツ出身のNBA選手からです。関係者各位、ごめんなさい。

月並みな感想かもですが。「Moonlight」、「Hidden Figures」、「Get Out」等の作品が目立ってきてるのは大統領選と無関係ではないんじゃないかと考えます。まあ、時の政権を支持するか否かは別にして、こういった作品が出て来ること自体は個人的に歓迎します。

邦画アニメについては上記以外にも「傷物語」や「打ち上げ花火」やアニゴジ、待ちに待った神山健治最新作「ひるね姫」などを観てはいたんですが、どうにも嵌る作品に出会えなかったといった印象。十二分に面白いとはいえ現在までの積み重ねの量を考慮すると贔屓目が逆作用して入れづらかった「ガルパン」や「SAO」といった感じでした。

 

まだまだ、攻殻の事とか観賞スタイルの事とか書こうと思えば書けますが。それを言っているとキリが無いので今回はこの辺で。

 

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「テイルズオブベルセリア」初回クリア後の雑感(ネタバレ)

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【前提として、1回はエンディング視聴済みのシリーズタイトル】

P(クロスエディション)、E(PSP)、S(GC)、A(PS2)、V(PS3)、G-f、X、X2、Z、W2。

トップにも書いてありますがネタバレ有なので、そこんとこよろしく。 

 

 

【昔話をします】

前作の「テイルズオブゼスティリア」が発売したのが約1年半前。

少なくとも私の知る処では不評に不評と少しの庇いを重ねたゼスティリア

私自身もあまり良い印象は残っておらず、キャラ同士の楽しい掛け合い、隅々まで気の利いた小ネタの数々、飽きにくい戦闘システムといった(私が思う)テイルズオブらしさは片鱗こそ見えるものの、私はその面白さを十分に受け入れきれず、当時を見返しても「全体的に惜しいが積み重なった結果」というツイートを残していた。

そして良くも悪くも「期待しすぎてしまった」という事は多分にあると思う。

 

さて、最初からネガティヴな事を言ってきたが、今になって思うと「見方を変えれば"素材"としてはある程度のものは揃っていた」という様にも思う。

このポジティヴな考えを強めてくれたのが去る8月18日に発売となった「テイルズオブベルセリア」。

私は今回、事前情報をほとんど入れずにプレイを開始した。

知ってたのは「シリーズ初の単独女性主人公(CV:佐藤利奈)」とその主人公の容姿ぐらい。後はTOZXで知った知識ぐらい。

プレイ前の印象としては「主人公は、見た目はTOXのミラみたいだが、設定から読む歩む道はTOVのユーリに近くなるのかな」と。

 

【物語を構成する対比】

文字通り期待と不安が入り混じる中で始めたベルセリア。始めてから実感する物語の暗さと緋(あか)さ。

目の前で最愛の弟ライフィセット(以下:ラフィ)を義兄アルトリウスに殺され、

自らも人とは異なるものに成り、

義兄の手によって独房へと入れられ、

その変容した左手で怪物たちを3年間にわたり喰らい続け、

義兄への復讐の為に脱獄し、

その過程で脱獄を手引した知人を喰らった。

そんな主人公ベルベットの背景や容姿、性格を反映し物語は序盤から暗い雰囲気が非常に強く出ている。

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ベルベットが暗さに特化した容姿であるのに対し、敵役であるアルトリウスをはじめとした聖寮は全体的に明るい容姿でまとめられている。

更に、物語全体の大きなテーマとして「感情と理(ことわり)」、「個と全」が挙げられる。個人的な感情で動くベルベットに対して、あくまで全体の為の理(性)こそが最善と割り切るアルトリウスという構図が描かれている。

劇中でアルトリウスは民衆から英雄視されており人類を導く者として「導師」の称号を与えられ、逆にベルベットは世を見出す悪として「災禍の顕主」の呼び名が市井で流布し始める。

主人公と敵役、善悪が一見逆転したかのような捻れは導入として面白いと思うし、最後まで続くこの対比構造は物語のテーマとして意識させられるところ。

 

早々に言ってしまうが、

ベルベットとアルトリウス、どちらのやり方が正しいのかは劇中で答は出ない。少なくとも私はそう感じた。どちらの案も不完全だったように思えるが、その理由については後述する。

 

 

【ベルベットが貫く物語の芯】

ベルベットと他の多くのシリーズ主人公を照らし合わせるものとして「主人公個人の最初の目的が物語全体を俯瞰した時に何処に位置しているのか」という処だと私は思う。勿論、ベルベットの様な主人公もいない訳ではない。

ベルベットの目的は「義兄に弟を殺された復讐を果たす」事。結果論ではあるが、これは物語全体から見ても着地点である。

序盤からベルベットは一貫して「義兄を殺す」事以外はほぼ眼中に無く、パーティーキャラが関係ない行動をとれば、容赦なく置いていくという姿勢を崩さない。

主人公の目的と物語の着地点が初めから最後までブレないと言う事で作品の真ん中に1本の大きな芯が通っているように思う。

前述した対比構造共に物語の根幹を成すものであると思う。

 

【感情と理を育てるパーティキャラクター】

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「類は友を呼ぶ」とでも言うのだろうか。上記した主人公に似たような仲間が集ってくる。

ロクロウは「恩返し」と言ってはいるが、アルトリウスの仲間であるシグレを斬るための最善策としてベルベットの傍を選んでいるだけ。

アイゼンは海賊団の副長として行方不明になっている船長を探しており、その事で利害が一致している為。

マギルゥは未だにハッキリしないが。暇つぶし、ロクロウとの賭けの結果を見届けるため、師匠との因縁を断つため、が考えられる。

エレノアは成り行きでスパイになったが、アルトリウスの特命によりフィーを奪取するため。

パーティひとりひとりが個人的な思惑を持っておりシリーズ上でも稀に見るレベルで自立性の高いパーティになっているのではないだろうか。

 

以上で名前が挙がらなかったパーティメンバーが1人いる。ライフィセット(以下:フィー)だ。何故、ベルベットの弟と同名なのかはここでは省きます。

主人公はベルベットだが、フィーが物語に与える影響はベルベットに比肩する程に大きいと思う。

前述したひとりひとりが自立しているこのパーティの中にあって、最も幼く、最初は自分の意思さえ定かではなく、道具として命令されるがままに生きてきたのがこのフィーである。言い方を変えると、このパーティー内で最も伸び代があるキャラクターだと言えるだろう。

前述したように、この物語のテーマに「感情と理」がある。フィーは当初、敵役である聖寮側に身を置いていたが、ベルベットの直感的な行動によりパーティの一員となることに。

私の言葉で、端的にこのパーティを形容するなら「フィーとその保護者たち」である。自立した一行の教育により理しか知らなかったフィーに「生きる者」としての感情が育っていくことになる。アイゼンが再三口にする「自分の舵は自分で取る」に代表される様に、物語の進捗度合いに比例してフィーの内面的な成長が見て取れるようになっていく。

ラスボスの口からも「ベルベットたちを支えているのはフィーだ」という旨の台詞が発せられている事からも彼の存在の大きさが窺える。

 

自立したメンバーの中で成長物語としての役割を担うのがフィーであり、パーティ全体でベルベットが体現する感情を育てていくという図式に見える。

 

【ベルベット】

ベルベットの最終目的は「弟ラフィを殺した義兄アルトリウスを殺し復讐を果たす」事。

物語中盤でとある連続する3つの出来事がある。いずれもベルベットの心を砕く為にアルトリウスが仕掛けたものだが、この辛い3連イベントを1日でこなして、ベルベットがほぼ壊れた処で寝る時間になった私は「なんだよこれ…。」と笑うしかなくなった。

そしてトドメとして、最愛の弟ラフィがベルベットの仇であるアルトリウスの協力者であり世界を支える五大神の一柱であるカノヌシとして蘇った時にはもう慣れっこになっていました。カノヌシはラフィの姿でベルベットを「お姉ちゃん」(CV:釘宮理恵)と呼びつつ、彼女のしてきたことを全て無駄だったと否定します。

半ばラフィの為にやってきた事を本人に否定され絶望したベルベットですが、フィーの言葉をキッカケに立ち直ります。 

※ここでの会話。メモはしてあるんですが如何せん長くて面倒なので端折ります。

 私の解釈で要約すると…

・フィーはベルベットがどうであろうと関係なく、自分の意志でベルベットを守ると決めた。世界にとっては無意味だろうと、フィーにとってはベルベットは無二の存在なのでベルベットがいなくちゃ嫌だ。

・ベルベットはラフィとアーサー(アルトリウス)が自分ではなく、世界を選んだことが悔しかった。

・アーサー義兄さんとラフィが全てを捨ててまで成そうとした願いをベルベットは理解した。しかし、2人を奪ったアルトリウスとカノヌシは許せない。

 

「家族を奪って、体を化物にして、今度は"心"をよこせって……?そっちこそふざけるなッ!」

 

ってな事で復活を果たします。まあ、前述した通り、物語とベルベットの目的の終着点はブレないので復活した事は既定路線だと思います。

注目したいのは上の箇条書き部分の最後の項目。ここの理屈が理解できるかどうかが、物語に対する個人の印象を大きく左右すると思います。

 私は一応理解できたので結末に関しても納得しています。

最終決戦。アルトリウスとカノヌシの神依(融合)を解き、アルトリウスの胸に剣を

突き立てた瞬間にベルベットの復讐は終わりを告げました。そこからの会話は彼女が愛し信じていた2人との会話になっていると感じます。つまり、アルトリウスとカノヌシへの復讐が終わり、ベルベットは義兄と過去のすれ違いを話し、ワガママを言う弟の面倒をみる姉に戻っていたと。

つまりベルベットが立ち直った時に自分の為という意識が重くなり、

彼女の目的はアルトリウスとカノヌシを倒し、アーサー義兄さんとラフィを取り戻すという事に 固まっていったと考えます。

そしてアーサー(アルトリウス)は死に、ベルベットとラフィは互いを喰い合う無限ループとなりエンディングとなります。

 

 OPの最後で、ベルベットたちの乗る船が明るい方に向かっていたので、ハッピーエンドになるんじゃないかという多少の予期はしていましたが…。

ベルベットは復讐を終えた後に1人行方不明となったり、自決したりする様な結末も考えていた私ですが、これはこれで結構なハッピーエンドなんじゃないかと思いました。

 

 

【世界の結末】

主人公ベルベットの結末について触れましたが、次に世界の結末についてです。

カノヌシがいなくなり、世界を支えていた五大神に空席が生じ「すぐに空席を埋めへんと世界の安定崩れるで」っていう流れになります(実際は関西弁ではありません)。

そこに名乗り出たのがフィーです。

訳あってフィーはカノヌシと同種の力を持っているのでそういった面では問題ありません。

結果から言うと、人を業魔化させたり災害を引き起こす「穢れ」というものを浄化する白銀の炎の能力を神となったフィーが世界に行き渡らせます。エンディングでは人間に戻せなかった筈の業魔の穢れが浄化され、人間に戻っていく描写があります。

「穢れ」自体を無くすことは出来ませんが、ある程度の「穢れ」ならば浄化できるというシステムです。

このエンディングによって前述したベルベット、アルトリウスがそれぞれ身をもって描く理念の不完全さが現れている様に思います。片方だけでは不十分。ふたつの大勢に属した経験を持ち、双方の考え方を合わせた上で先に進むことが出来る(伸び代がある)キャラクターが次の世界を創造していく。

勿論、フィーの答も完全な解決策ではありません。しかし私は「人間を信じて、やり直すチャンスを与える」というこのエンディングに強い好感を持ったのでそれなりに支持はしていきたいと思っている。

 

【他に色々思う処】

物語の感想だけでかなり長くなっている気がする…。

ここでは箇条書きで。

・今回の戦闘中の入れ替えは操作が簡単で良かった。

・通常攻撃が無い戦闘も慣れてきたが、そろそろ有るシステムもやりたい。

・秘奥義を発動すると連携が途切れるので、詠唱中の鋼体が強いが阻止したい敵に対しては秘奥義の意義が薄くなる。

・第2、第3、協力秘奥義は派手で見てて気持ちいいものが多くて良かった。「ロスト・フォン・ドライブ」と「インディグネイション」をありがとうございます。

・レアボード、カメラは固定せずに使いたかった。

・キャラ札が非常に面白い。花札ルールだと人から聞いて初めて知った。

・少し増えたりしたとは言え、戦闘後の掛け合い、サブイベント、チャットなどは遊びついでにもう少し増やしてくれると嬉しい。

 

 殊、バトルシステムに関しては私なんぞより遥かに詳しい方々がいると思うので、そちらの意見を探したほうが良いかも知れない。

 

 

【最後に】

書き出したら予想以上に褒めてる自分がいたが、やはりまだ物足りない部分もある気がしていて。過去の作品だから印象が美化されていると言われても否定は出来ないが、どうしても「昔の作品の方が満足感が高かった」と思ってしまう。

「穢れ」まわりの話については粗さが目立つ気がしていて、人(キャラ)の心の問題だから仕方ないのかも知れないが、影響力の匙加減が恣意的過ぎるのではないかと思ったりもしている。

後、これが1番言いたい事なんだけれど、

 

「続きもので取り返す事に慣れてほしくない。」 

 

今回のベルセリアはゼスティリアの過去編。その前のエクシリア2は、文字通りエクシリアの続編。いずれも最初に発売した方の評判がイマイチ芳しくなく…、という処からの芳しい続きもので評価を取り戻すという現象が連続している。

※私の観測範囲の印象なので間違っていたらすいません。

制作側がどう思っているのか私は知らない。しかし、もしも「売れなかったら過去編か続編出せば良いだろ」という考えがあるならば、出来ることなら遠慮願いたい。

ゲームに限った事ではないが、続きものにして見知ったキャラを出すと、物語自体が不評でもそれなりに嬉しくなるんですよ。でも私は、それに頼って作品作りをしてほしくない。

おまけややりこみ要素などでゲスト出演として過去キャラを出す分には何も言うことはないが、私としてはあまりに本編への絡みが多いのは好きではない。

まあ、昔からハード移植時に物語やらキャラやら秘奥義やら追加してきた(俗に言う完全版商法)作品群なのでそういう意味で感覚が麻痺しているのかも知れない。

 

話が飛んで申し訳ないが、現在放送中のアニメ「ラブライブ!サンシャイン!!」。

あの作品から、スタッフの強い覚悟を私は感じている。「ラブライブ!」時代に凄まじい人気を積み上げたμ'sというグループのメンバーを1人も出さないどころか、家族や友人すらも出さない。あるのはポスターやモニター映像、イメージだけ。台詞の端々にも「μ'sの魅力は借りない」という意志が伝わってくる。

 

すいません、話を戻します。

要は、そろそろ1タイトルでしっかり完結するものがやりたい。って事です。

それも昔は1タイトルでしっかり終わっていたからこそ抱く想いなのかも知れませんが。なんだかんだ言いつつも今回も予約をして購入しているので懐古から来る期待が残っているんでしょう。

ベルセリアが私にとって好印象だった事でおそらくまだ期待の継ぎ足し分は残っています。勝手なことばかり言っているのは承知の上ですが、次も期待を込めて購入するでしょう。

PS4専用で来たら購入確約は出来ませんが…。

 

ちょっと熱くなり最後に色々と文句を言ったけども、出来れば私もフィーの様に、

怖くて優しい、強くて弱い人間(制作)を信じて、

また次の「テイルズオブ」を楽しみに待っていようと思います。

 

【言い忘れたけども】

ベルセリアからゼスティリアへの伏線や繋がっている部分を纏めて、書き出しても面白いと思ったが今回は物語中心の感想のみで。

 

Pokemon GO 雑感(Aug.2016)

アメリカキリスト教会「サトシと彼の親友であるタケシとの間にプラトニックラブがあることは明らかだ。」

???「「「その通り!分かっているじゃないか。」」」

 

Pokemon GOが日本で配信開始された直後こんなニュースがTwitterで私の目に飛び込んできた。ただし、上記のやりとりでリアクションの方は私の主観的捏造なのであしからず。

今になって振り返ると、アメリカキリスト教会はずっとこれを言いたかったのかも知れない。Pokemon GOが流行っている機に乗じて、他の問題と一緒に提起したかったのかも知れない。何なら、ここでポケモンのCP話をしてもいいところだが、今回はアプリの感想文なのでやめておく。

正直、最初は様子見で、やると決めていても即時に手を出す気にはなれなかった。しかし、蓋を開けてみれば思った以上にプレイしているというのが現状。

 

【私的基礎情報】

チュートリアルクリア:7月26日(日本配信開始から4日後)

本格始動:7月31日(スクフェスのイベントの為)

関連作プレイ経験:赤、銀、FR、エメラルド、ダイヤモンド、プラチナ、白、黒。ポケモンスタジアムポケモンスナップ、XD、バトナージ。

 

(現在の進捗状況)

図鑑:捕まえた数83、見つけた数85

レベル:20

歩行距離:110.2km

 

【開始】

アプリを起動すると誕生日やらアカウントの登録・入力やら云々。で、いつも通り博士が出て来て説明開始。今回はウィロー博士。

で、少し話題になったらしい「スタイル」選択。言われて気付いたけど、確かにスタイルと言うことでかなり言葉としての拘束力が緩められるし、これはこれはこれから他のゲームでも採用していってほしいものだなと。最近は自分でプレイヤーアバターをメイキングするゲームがかなり増えてきているので、良い指標として欲しいところ。

今回のキャラデザに関して、博士もプレイヤーもスポーツタイツを履いていたりして、歩いたり走ったりする事を前提に考えられた服装、デザインをしていると思った。

ウィロー博士ががっしりとした筋肉質で、その身体のラインをある程度分かる様なデザインなのに対し。プレイヤー側は割と細身なので、視覚的にベテランとルーキーを表したかったのかも知れない。

で、捕獲チュートリアルを含めた御三家+ピカチュウ選び。私は第3世代のキモリ以外は全て水タイプで通してきたので、今回も迷わずゼニガメ。余談ですが、後々に、ラグラージもかなり強いという事に気づきました。

その後は、最初の鬼門?となるニックネーム入力。このニックネーム入力、英語で全世界のプレイヤーと被らないものにしないといけない、と言う認識でいいのかな。私も少し手こずったけど、数字を入れたら割とすんなり通った。

最後にポケストップなどを簡単に説明してチュートリアル終了。

ここまでだと、入力などに割と時間を取られて、アプリの説明はかなり簡潔に済ませている印象がある。最初の数日はメニューの設定からいけるヘルプセンターを何度も開いて読み返しました。ヘルプセンターにはある程度の情報は載っていますが、各項目とも「それが何か」を大雑把に理解したら、後は「習うより慣れろ」だと思った。

 

【移動】

当アプリの根幹のひとつとも言える移動。私は散歩したり、ランニングしたりって事に抵抗が無い人間なのでこれに関しては問題ないというか。寧ろ、Pokemon GOによって散歩やランニングに新たな付加価値が与えられたと思っている。

ポケモンの出現だけでなく、ポケストップ巡りによって現実の場所の価値の発見、再認識が進む事がこのアプリの大きな長所となっていると思う。これがこのアプリの最も魅力的な部分のひとつだと思うので、可能な限りで有効利用していってもらいたい。

位置情報に関しては、大型のショッピングモールに行った時に思ったのが、モール内に入ると位置情報が安定しなくなるという事。自分はモール内にいるのに、位置情報は数百m離れた田んぼのど真ん中にいて動かない、なんて事もあった。モール内の無料Wi-Fiを入れると、位置情報は安定しだすが、ポケモン出現時にタップするとエラーが表示されて捕獲画面に移行できないという現象も。多分だが電波状況の問題なんだろうけど、これがNianticポケモンで対処出来るのかは私には分からない。

 

概ね移動とマナーに関するものが多い気がしているが、現在出て来ている諸注意に関してネット、テレビ、新聞などの各メディアでも取り上げられているし、私もTwitterで散書したと思うが、ここにも個人的な想いを書いておこうと思う。

先ず。こういった諸問題が出て来た時に毎回言われているが、問題を起こしているのは人間であってアプリでは無い事。プレイする各個人の自律性によるものだし、関わる人が多くなる程に上手くいかない事が増えていくのはどのジャンルでも同じなので、Pokemon GOの配信やプレイを止めさせた所で、それは先延ばしに過ぎず、根本解決にはなっていないと思う、というのが大まかな現在の心境。

歩きスマホしている人が増えたという事には頷くが、Pokemon GO配信前からも歩きスマホをしている人間は結構な数がいたので、「以前はいなかったのに」という様な言い方には首を横に振る。最初に書いた、流行に乗じて以前からの問題を結びつけて提起してくるパターンと似ている気がする。

速度制限(時速何kmまでかは諸説見た)があるとは言え、車を運転しながらポケストップ巡りをしている人がいるようで。私も何度か見たが、端から見ても車の挙動が非常に危なかったので、あれは本当に止めた方が良いと思う。

1度ランニングしながらやってみたが、歩行以上に自律が求められると感じた。車ほどでは無いが、歩行よりスピードが出るし、ストップから再スタートには車以上に体力を使うので精神面で自律が出来てないとかなり危ない事になると思う。私は夜にやったので交通面ではそれほど危険は無かったが、昼はかなりの注意力や思考力が必要になってくると思われる。

 

皇居ランナーでPokemon GOオフ(オン?)とか出来るんじゃないかな。知らんけど。

 

【捕獲・蒐集・育成】

原作ゲームでは、一部の例外を除いて、手持ちのポケモンとバトルをし、弱らせてからモンスターボールで捕獲するというのが基本となっていたが、Pokemon GOではバトルは無し。ボールに入るか否か。プレイヤーの拘束時間やスマホアプリというコンテンツを考えた場合にはこれでいいのかも知れない。「野生ポケモンと出会って、逃さず対応しきれば自分が潤う」という基本は変わっていないし、大きな問題は無い様に思う。

個人的な意見として、やはりポケストップの無いor少ない場所は幾らか苦しいところがあると思う。課金でもいいが、流石にそこであまりに格差が出るとモチベーションも下がると思う。ingressを元にしているとは言え、Pokemon GO独自にストップの調整も視野に入れていけば有り難いことだと思う。

蒐集に関して。ボール問題もそうだが、ポケモンの出現状況というものが気になっている。私の体感として、人が集まる場所ほどポケモンが出やすいというのがある。前述したショッピングモールでは位置情報こそ不安定なものの、200~300m程歩けば3、4匹同時出現なんてのはザラだが、シャッターが目立ち始めた商店街なんかは同じ距離でも1、2匹でコラッタやポッポばかりというのも珍しくない。「巣を増やしてくれ」と無闇に言ったりはしないが、 「もう少し」という我儘が頭をよぎったりもする。

住んでる地域によって格差が出てくるのは、しようが無いかも知れないが、電波が届く限りゲームを進められるのだから、世界の隅々まで使えるようになったら楽しさしか無いと思う。が、流石にそれは無茶か。

育成のCP制については、やはり現行だと最大CPがもともと高いポケモンが有利になっていて、ほとんどのジムが決まったポケモンに占拠されている(シャワーズカイリューカビゴン、ナッシー、ギャラドス、ヤドランあたり)。私としては「できるだけ多くのポケモンを育てる楽しさ」が欲しいところではあるので、これからのバランス調整に期待していきたい。実現するかは別として。

 

一応書きながら読み返してるけど、大半が文句みたいになっていて申し訳ない。

 

【バトル】

現在、可能なのはジムでのバトルのみ。何度か挑戦してみたが、他のポケモンがまあ強い。私が遅く始めたことと相まって、トレーナーレベルが20近くになってようやくまともに戦えそうなCPを持つポケモンが揃ってきた。

始めた当初に思ったのは「車と時間がある大学生が有利じゃないかな。しかもこれから長い夏休み。」だった。別に統計をとった訳ではないので実際は分からないが、時間の大学生と金の社会人だとどちらが有利なのかという疑問も浮かんだりした。

今回のバトル、ターン制ではない事など原作ソフトとは違い、スマホの全面タッチパネルを利用した、より直感的で手軽なバトルが楽しめる。

 今回は3値程の複雑さは今の処なさそうだが、その是非は今後次第か。個人的には、今回は主なターゲットが20~30代の大人だと思うので、このアプリこそ3値の様な奥行きを作ってもいいと思うが。ただ、それをするとライトユーザーたちが長続きしなくなる恐れも分かるので、ここは難しいところ。

育成のところでCP制について触れたが、技の選択がランダムというのは、いままでわざマシンやたまご技などで自分のポケモンを育ててきた人間にとっては、CP(ステータス)と技というバトルの重要な部分の2つが両方ランダムなのは結構辛いものがあるが、運営はどう考えているのか。

 

今の処、バトルより蒐集のほうに力を入れている気がしているので、暫く変更などはないかも知れない。

 

 

【最後に…】


【公式】『Pokémon GO』 初公開映像

 なんだかんだと、主に足りないところの指摘ばかりになってしまったのは否めないが、このアプリはまだ日本での配信開始から1ヶ月も経っていない。

上に貼った動画を見てもらえればわかると思うが、動画の中で描かれているけど、実装されていない機能は沢山ある(交換、ジム以外でのバトル、稀少ポケモン捕獲の為のイベント)。

私も含めて色々な人が称賛や批判を放っているが、Pokemon GOはまだリリースしたてで未完成という事を私は頭に入れてプレイしていこうと思う。

日本では11月にサン、ムーンの発売が予定されているがそれをこのアプリの運営がどう捉えているのか、プレイヤーはどうするのか。

まだまだポテンシャルを発揮していない「Pokemon GO」を、自分がやり続けるか否かに関わらず、これからも動向は追っていきたいと思うし。思ったこと等はTwitterあたりでアウトプットしていきたいと思う。