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アニメや映画などを観て感じたこと、想ったこと。ネタバレする場合有。

『アヒルと鴨のコインロッカー』感想

私は読書感想文というものを書いたことがない。

正確には、書いたかどうか覚えていない。

小学生や中学生の頃、宿題という名目で課される文章を書く行為にやる気など微塵も無かったんだろうと想像している。

レポートは相当数を書いた覚えはあるが、文章やレポートの作り方を意識して理解しだしたのはそれを書く必要がなくなってから。

私はそのあたりに関してはある程度自覚的だ。要は、他人から課されたり、急かされたりしている間は基本的にモチベーションは低空飛行どころか地面を転がっていくか、もしかしたらドリルや酸素ボンベが必要という程かも知れない。

(まあ、例外もあるけれども。)

Twitterやブログなどで気が向いた時にこうして文字を並べているのは、作文というものに親しんでこなかった反動も一因しているんだろう。

 更に、活字だけのメディア、小説や新聞、にもほとんど触れてこなかった事で苦手意識がある。しかし、映画やアニメを嗜む上でそういったものにも手を出していかなければと腰を上げる機会も、以前に比べれば増えた。

そういった流れが出来た中で「一度は読書感想文みたいなものを自分なりに書いてみたい」と思うようになった。

 

そうしたお膳立てが少し出来、それとは別に私の読書モチベが幾らか貯まってきたところで『アヒルと鴨のコインロッカー』を読み、今回の当記事に至ったのであります。

この作品、文庫を頂いたのは昨年なのですが、ようやっと読みました。読み始めるまでが長かった。読み始めたら4日で読み切れました。私としてはかなり早い。

で、冒頭の話。どうせなら読書感想文の文字数に当てはめて書いてみようかと思い調べると、中高生が2000文字以内らしいのでそれを基準に思ったことを文字に起こしてみました。だいたい1600字ちょっとに収まりました。

 

 

 

 

※ネタバレ注意

 

 

 

※繰り返しますが、ネタバレ要注意。

(小説や映画でこの作品を最後まで観てない方には決してオススメできません。自己責任でお願いします。)

 

 

 

 

 

 

 

違和感の様なものはあった。言葉の繋がりとして理解はしていても、間隔の狭いボタンをかけ違えた様な引っかかりを。私はお世辞にも小説を読んでいるとは言えない程度の読書経験しかないので、違和感を自覚出来れば御の字だと思うし、人知れず読み終わった後でなら何とでも言えるとも思う。アニメや映画よりも振り返りが難しく思えるのは私の経験値や慣れの所為だと思うが、それ故なかなかこの感想文を書くにあたっての落とし所を見出だせなかった。
そんな経験値なので勿論、伊坂幸太郎の作品だって初めて読んだ。読み始めに感じたのは「過去と現在を代わる代わる区切って描いていくスタイルは本当にプロもやるのか」という事と、自分がものを書いた時に使った覚えのある中盤の出来事を冒頭に持ってくるという手法が被った事による奇妙な自尊心だった。
読み進めていくうちにこの過去と現在のスタイルには少々覚えがあった。映画「ブルーバレンタイン」を思い出した。「アヒルと鴨のコインロッカー」とこの映画の内容が似ているかは兎も角として、スタイルに関して先ず想起したのはこの作品だった。他には、アニメーション監督神山健治の著書『神山健治の映画は撮ったことがない』(4頁〜6頁)において「観客を飽きさせない手法として、小さな疑問をコンスタントに作りその答を示していく」という様な内容が挙げられていたが、本作品においてはそれが充分に感じ取れ、それが読み進めやすさの一因だろうとも思う。更には、河崎の正体が明らかになってから点が線でどんどんと繋がっていくカタルシスは、映画やアニメでも幾度か覚えがあるが、気持ちのいいものだった。
演出で特に印象深いのはバッティングセンターで琴美が河崎に病気について詰め寄る場面。背景で少年が快音を響かせており、同様に琴美の話が河崎の芯を捉えている事が分かる。「演出で表現する際に当人の仕草や自然や無機物ではなく、赤の他人に頼っても良いのか」と思った場面だった。小説の読み方がひとつ分かった様で嬉しくもあった。
物語についてだが、伊坂幸太郎に関して伏線やその回収を相当にしてくるという話は聞いていたので、多少なり気を配りつつ読んでいたのだが、結論を言うと(予測というよりは)予感が当たったのは「現在において琴美は亡くなっており、それがあの3人組によるものだ」というあたり。
伏線に関して最も気が遣われているのは河崎とドルジの件だろう。そこに関しては入れ替わりまでは思い至らなかったが、河崎が生きているともあまり思えずに過去編を読んでいた。このあたりは読み返せば色々と納得できる事が増えていくだろうし、容姿に関しても序盤で椎名によって語られてこそいるが、過去の河崎とは矛盾する点もある。言い訳をするなら、麗子さんが内面的に変わっていたので2年という年月を考えると「いろいろ」変わるには充分すぎる時間だと自分に説いていたというところだろう。このあたりの文章という形態を活かした謎としては2018年5月中旬にスマートフォンゲーム「Fate/Grand Order」で開催された「虚月館殺人事件」という推理イベントの経験から膝を打つことはあっても、推察できなかった悔しさは無かった。
この物語、誰が主人公かと言われて絞るとすれば琴美と椎名だと思う。理由は単純に地の文が彼らの視点からなっているから。更に言うと。琴美はクロシバ探しと猫の埋葬から始まり相関図の中央にいる物語の起点であり中心人物。椎名は一連の流れが収束しかかった時に終止符を打つべく投入された当事者であり、懺悔を聞く神父のような部外者。
そして、琴美も椎名もドルジも河崎も物語の結びにおいて舞台となる街からいなくなっている。過去の事件を現在と同時進行させながら語っている効果か、琴美の様に恐怖したり憤怒したりはしても何処か感情が湿りきらない感覚があった。もう過ぎ去った事として傍観者という感覚が相当にはあったんだと思う。それが椎名の視点として長いこれからの人生において風に吹かれていくようなほんの数日の出来事を越えて次の人生に向かっていくことであり。一方で琴美は動物たちの死に対する見ないふりをやめ勇敢にも自由のために戦い、彼女もまた次の人生にむかっていったんだと思う。
それでも神はあの街に残り、1人歌い続ける。傷ついたひとを慰めるように、理不尽を告発するかのように。